つきみかふぇのらいとのべる

ちょっぴり苦めのコーヒーをどうぞ

エーデルシュティメ 第1話『桜と風呂場と新しい部屋』(前)

 春の光輝く風を乗って、桜の花弁がふわりと校門の前へと舞い降りた。入学式は今からちょうど一時間後。あどけない顔立ちでそわそわした素振りを見せる女子高生たちは、ピンク色の絨毯を容赦なく踏み歩く。どこか頼りなさそうにも見える小さな身体は、わずかな勇気という目に見えない魔法を使って、その緊張を解きほぐそうとしているのかもしれない。

 初めて入った教室。中学のものよりも僅かに大きく感じる机。
 自分の身体と机の大きさを比較して、俺自身の未熟さを測ってみようと試みる。

「よっ、大樹。俺ら高校入っても同じクラスだな」
「おう。よろしく頼む」

 中学の頃からの同級生である拓海にそう返しておきながら、そもそも何を頼もうとしているのか、これ以上曖昧なものはないかもしれない。ただの社交辞令なのだろう。


「相変わらずお前、無愛想だな」
「悪かったな……」
「でも大樹って学生寮組だろ? そんな上からの態度ばかりじゃ妬まれるぞ?」
「別に。学生寮に入れたのなんて勉強した結果だ。特に妬まれることでもないと思うが」
「おいおい。そんな身も蓋もないこと言うなって」

 どうしても家を出たかった俺は、がむしゃらに勉強した。そもそも勉強するより他にやることがなかったわけだけかもしれない。向かう先のない暗闇の道のみを辿って、どこかにあるはずの光の出口だけを探し求めていた。地図にも載ってない出口なんて、はなから探しようがないのにな。
 とはいえ拓海の指摘はごもっともだ。学生寮に入れなかった生徒から見れば、こんな何も取り柄のない俺に対しても妬んでいるやつがいるのかもしれない。本当にいろんな意味で困ったものだ。

「ところでルームメイトにはもう会ったんだよな? 大樹も友達少ないんだから、同じ部屋のやつとだけは仲良くやっておけよ」
「あ、ああ。だけどそれがまだなんだ」
「まだって……ルームメイトにはまだ会ってないってことか?」
「昨日突然学園長に呼び出されて、急に部屋を変えてくれとか言われて」
「部屋を変える? てか男子寮ってみんな同じ部屋のはずだよな? まさかそれ、幽霊が出るといういわく付きの部屋だったとか?」
「さすがに幽霊が出るとか非科学的すぎるだろ」
「だったらひょっとして……男子寮から女子寮へ移るとか!?」
「それはもっとありえないだろ。建物はそのままで、部屋だけ移ってほしいって」

 どちらにせよ冗談としてはきついのだが、あながち遠くないかもしれないと思ったのも事実だ。寮長と名乗る人物から学園長室へ向かうよう指示されたのは、昨日のちょうど引っ越しの荷物を運び終わったばかりの頃のこと。休憩もまともにできぬまま渋々学園長室へ向かうと、訪れた俺を待っていたのはその部屋の名の通り、学園長だった。学園長は俺の顔をじっと睨みつけた後、『部屋を移ってほしい。よろしく頼む』という二言のみを伝えてくる。無愛想な顔でそれ以上の何も説明がないどころか、そのまま学園長室を追い出されてしまった。そもそも何を頼まれているのかさえ全くわからないというのに。
 本当に俺の無駄な緊張と、無駄な時間を返してほしい。

「昨晩中に荷物だけは新しい部屋へ移動させることができたから、今日は帰ったら荷出しだな」

 唯一の救いは、荷出しする前に寮長が現れてくれたところ。もうちょい遅かったら今日の俺のメンタルも体力も、最悪に違いなかっただろう。

「じゃあまだ新しいルームメイトの名前も知らないのか」
「ああ。でもそういや寮長から、ルームメイトの一人は同じ中学出身って話だけ聞いた気がする」
「え、俺らと同中? それって……まぢかよ!??」

 そういえばとふと思い出したの話なのだが、拓海の反応は俺が予想していたものと明らかに異なっていた。

「ん? そんなに驚くことか??」
「あ、いや、同中で学生寮組のやつって、大樹ともう一人は上杉透だけのはずなんだが」
「そうなのか? じゃあ、その上杉ってやつが俺のルームメートってことだな」
「あ、ああ。……てか大樹。自分で自分の言ってることちゃんと理解してねえだろ?」
「ん、なんのことだ?」
「だって上杉って……」
「上杉ってあの女みたいな顔したやつだろ。俺も中学の廊下で何度かすれ違ったことがある程度だけど」

 上杉透と言えば、一見すると美形男子。男子の制服さえ着ていなければ女子と間違われてもおかしくないレベルだ。中学の頃は三年間同じクラスになったこともないので、話したことないのは当然なのかもしれないが。というより、中学の頃から拓海以外の人間とまともに話をした記憶などないけどな。

「……なるほど。今の反応で大樹がどういう認識してるのかよくわかったよ」
「は? だからそれは一体どういう意味だ?」
「ま、とにかく大樹の目で確かめるのが一番ってことだな」
「…………」

 拓海の目は明らかに泳いでいる。だがそんなめんどくさそうな話に関わる体力なんて今の俺には備わってはいなかった。それ以上突っ込もうとは思わなかったし、思えなかった。

「とりあえずそんな大樹に一つだけ助言しておく。もしそれが事実だとするなら、風呂場に入る時だけは絶対に慎重に入るんだぞ。絶対だからな!」
「だからそれ本当にどういう意味だって?」

 いや、やはり俺がどうとか関係なくても、本気でめんどくさそうな話のようだ。
 拓海との会話でわかったことは、恐らく同じ中学だった上杉透がルームメイトになるとのこと。話したことがないとは言え、悪いやつとは到底思えない。むしろ真面目一直線という印象の好男子。それが俺の中での彼の印象だ。
 それならそれでいいじゃないか。誰がルームメイトであろうと別に命が取られるというわけではない。俺はあの家で自分を見失いそうになって、それこそ自分の魂が奪われるんじゃないかと思えたから飛び出してきたんだ。あんな環境に比べたら、どんな寮生活でもずっとマシに思えるんじゃないかってくらいに。

 地面に落ちた桜の花弁は、もう一度ふわりと舞い上がった。ひらひらと風に乗って、そのまま俺の方へと向かってくる。ぴたっと窓の外枠に貼り付いたピンクのそれは、俺の顔をじっと見つめてきたんだ。

 * * *

 入学式が終わると、まだ顔もほとんどわからない新しいクラスでホームルームがあった程度。いくら高大一貫教育の進学校を謳っている本校であっても、初日から授業があるわけではない。特に何の変哲もない普通の高校で、普通の進学校という印象だ。周囲は勉強ができそうな連中ばかりというわけでもないし、どこかで気楽に行こうぜってそんな風に言われてる心地さえしたくらいだ。

 他の学校と違うところと言えば、学校が終わった後のことくらいか。他の生徒たちは校門から外に出て帰路へと着くのに対し、俺は校門を出ずに違う建物へと移動する。拓海とは昇降口で別れた後、校門とは逆方向へキャンパス内を歩き出した。向かう先は昨日から俺の住まいとなっている男子寮二号館だ。
 男子寮とは言え、そこは研究に対して自由に使っていいことになっており、門限さえ守れば本校の生徒であれば寮生でなくても出入り自由の場所だ。寮の中で女子生徒の姿を見かかるのもそれが理由。あながち寮生である男子生徒が、共同研究者として女子生徒を招いたとかそんな具合だろう。決して広くもない廊下で、きらきらしたオーラを纏って走ってくる女子生徒が、俺の身体すれすれの場所を通り過ぎていく。廊下は走るなって、小学生の頃に習わなかったのだろうか。だがもちろん誰かに特に咎められることもなく、どこか呆れる程度には自由奔放な校風だった。

 俺の部屋は八九七号室と呼ぶだけあって、文字通り八階にある。広さ的には3LDKのマンションと同じ程度。そんな部屋を学生三人で暮らすわけだから申し分ない広さだ。入試試験の成績優秀者には高校生のうちから自分の研究に没頭できるようにと、そう配慮された造りになっている。
 俺は昨日寮長からもらったばかりの鍵を使って、鍵を開けようとした。だが予想に反して、鍵は空いたまま。既に中には俺ではない誰かがいるようだ。拓海の言っていた上杉透だろうか。

「あ、やっと帰ってきた」

 部屋の奥からキーの高い柔らかめの声色が聞こえてくる。どれくらい高いかと言えば、先程廊下ですれ違った女子たちの声よりずっと高い声だ。

「大樹くんでしょ? 玄関にいつまでも突っ立っていないで早くこっち来てよ〜」

 心に染み込んでくる、生暖かい声。ドキュメンタリー番組のナレーションを生で聴いてるかのような、そんな感覚に陥ってしまう。廊下の一番奥のリビングの扉が閉められているため、リビングの中にいると思われる声の主の顔はまだ見えないが、俺の名前を知ってるということは、俺が部屋番号を間違えとかそういう話ではなさそうだ。
 にしてもなぜ女子がこの部屋にいるのだろう。さしずめ上杉透が誘った友人かもしれない。とはいえ入学式初日早々から女子を連れ込んでくるとか、さすがに勘弁してほしいのだけどな。

 だがリビングの戸を開くと、そこには想像してたものとは異なる光景が広がっていたんだ。

「…………」
「おっ、君が大樹くんか。想像してたよりずっとイケメン君じゃん」

 てっきり上杉透と共に勉強している女子の姿があるはずと思っていたのに、キッチンの前で片付けをしていたのは、声の主である女子の姿一人のみ。その真っ白な手には包丁がしっかりと握りしめられていた。

「あ、そうだ。ご飯にする? それともお風呂にする? それとも……」
「ちょっと待て。何なんだこれは!??」

 殺意にも覚える漆黒の彼女の瞳。俺はそのずっと奥の方まで吸い込まれてしまうな気がした。

 * * * * *

後編へ

roman.shikanotsuki.me