「とはいってもまだご飯もできてないし、お風呂も先約がいるからどっちもダメなんだけどね〜」
「だからそうじゃなくて!」
「ん〜? せっかくだからちょっとやってみたかっただけなのに、君って面白くないな〜」
「何をやってみたかったんだよ!?? というか、お前は誰なんだ?」
そもそも今どきそんなベタすぎる新婚生活みたいな展開、本当にやるやつがいるとは。
「え? 昨日パパから何も聞いてないの?」
「パパ!? 誰だそれ。そもそも俺が昨日会ったのは……」
引っ越し屋のお兄さんと、寮長のおじさん、そしてこの学校の学園長くらいだ。入寮手続きでバタバタしたせいで、それ以外の人と話した記憶などない。
「だって大樹くん、パパの部屋に呼び出されてたじゃん。寮長さんにそう聞いたけど」
「パパの部屋ってまさか学園長室のことか? ……てことはお前、まさか?」
「だからてっきりパパから『よろしく頼む』みたいなこと言われたのかなって思ってたんだけど」
「…………」
……確かに言われた。こいつの言ってることは何一つ間違ってない。あろうことか話の辻褄が全て繋がってしまった。しかも俺の想像を遥かに超えすぎた、斜め上の展開に。
「ひょっとして君、実は無愛想だったりするの? なんだか君つまらなそうだなって」
「は……?」
会ってばかりの女子に無愛想と言われ、だがそのキーワードはどういうわけかこの女子のパパとやらに紐付いてしまい、俺はその場でたじろぐしかなかった。
「でもちょっと楽しくはなりそうかな。だから今日からよろしくね! 大樹くんっ」
ぱっと煌めくようなその笑顔の背後に、自分の顔の影が映り込む。そもそも俺は今どんな顔をしているのだろう。状況が整理が追いつかないまま、頭の中の迷路は深い真っ白な霧に覆われていく。そこへこの学園長の娘とやらの強い光の声が反射して、俺の視界は完全に遮られてしまう。
「ど、どういうことだ!? ここ、男子寮だぞ?」
「そうは言っても、私も昨日パパに言われてここへ住むことになっただけだし」
「じゃなくて、それでいいのかよ!? 俺は男だぞ? お前はそれで大丈夫なのかって」
「いいんじゃない? どうせ私の個室にもちゃんと内鍵もついてるし」
「そういう問題かよ……」
「あ、だけどもし君が鍵を壊して夜に襲ってきたりなんてしたら、即刻パパに言いつけて君を退学処分にしてもらうから覚悟しておいてねっ!」
「お、おう。……じゃなくて、そんなことするわけね〜だろ!」
やはりまだ状況が整理が追いつかない。つまり俺はこの学園長の娘とこの部屋で暮らすことになり、学園長は昨日この状況に対して『よろしく頼む』と言ったわけか。そこまでは理解したくないが何とか理解できた。だがそれ以上を理解するには、この話の細い糸切れを一本一本解いたところで無理に決まってる。
「あ、君のその顔、ひょっとして照れてるね? 少しは可愛いところもあるじゃん」
「照れてなんかねーよ。むしろ……」
むしろ、怒ってる。
「ま、ここでは学園長であるパパの言いつけは絶対だもん。私も君も逆らえっこないし」
「だからなんで俺より冷静でいられるんだお前は!?」
てゆか何だこの状況? 俺はどうしても自分の家を出たくて必死に勉強して、やっとこの学生寮で生活する権利を手に入れたんだはずなんだ。俺の家だった俺のいない家は、今頃俺とは血の繋がりのない父と母とその娘が仲睦まじく暮らしているはず。ちゃんと血が繋がった誰がどう見たって幸せな家族三人暮らしで、そこに当然俺の居場所なんて最初から存在しなかった。だから俺はこの学生寮の生活を手に入れたはずだったんだ。
それが何をどう転んだらこんな謎の女子と寮生活ということになるんだ? 本当にこれが俺がずっと探し求めていた出口だというのか。いや、違う。ここはまだ迷路の中なんだ。だから俺の住むべき部屋だって、本当はここじゃないのかもしれない。
「何腹立ってんのよ? こんな可愛い女の子とひとつ屋根の下で暮らせるなんて、私のファンが聞いたら卒倒するお話だと思うのにな」
まるで俺を試すかのような瞳で、俺の目をじっと見つめてくる。冗談なのか『私のファン』などと宣うが、とはいえそこには本当にテレビの中にいるアイドルのような眩しさがちゃんとあった。
「そもそもお前、自分のこと可愛い女の子とか、自分のファンとか……」
「あ、そっか。まだ自己紹介がまだだったよね。どうせあの無愛想なパパのことだから、本当に私のこと何一つ喋らなかったのかもしれないし」
「お、おう」
その通り過ぎて、だから困ってる。理解だけが早いのはこいつの唯一の救いなのかもしれない。
「私の名前は緑川碧海。表向きには学園長の娘ってことになってるけど実はそれって世を忍ぶ仮の姿で、本当は裏で密かに女子高生声優やってま〜す!」
だけどお願いだからどうせならどっちも世を忍んでほしかった。
「…………わかった。とりあえず洗面所行ってくる」
話がついていけなさすぎるので、洗面所でも行って顔を洗ってこよう。少しでも気持ちがほぐれるかもしれない。もしかしたらこれは夢の中なのかもしれないし。いや、恐らくきっと夢だろう。こんな訳のわからないメルヘンチックなお話についていけるかっていうんだ。
……と、夢の中ではないことはわかってる。だけど、言いたいことは山のようにありすぎて、何から理解していけばいいのかさっぱりわからないんだ。
「あ、待って。まだダメ!!!」
「なんだよ。まだなにかあるのかよ?」
「そうじゃなくて、今洗面所はダメなんだって!!」
「わけわかんね〜よ。とりあえず一人にさせてくれ。まだ話の整理ができてないんだ」
「そうじゃないんだって〜!!!」
緑川と名乗る女子の悲鳴のような声が耳元を襲うが、俺は回れ右をして、玄関とリビングの途中にある洗面所へと向かった。とりあえずこんな状況、すぐに理解してたまるか。何かが間違ってるとしか思えなくて、逃げるようにリビングの戸を閉める。
逃げるように……? そもそも何から逃げるようとしているのだろう。こんな状況理解できなさすぎて、頭がくらくらするくらいだ。
そうだ。もう一人のルームメイト、上杉透はこの状況をちゃんと理解できるのか? あいつだって男だし、男子二人、女子一人みたいな共同生活、きっと困惑するに決まってる。むしろ女子一人の方の緑川はよくそんな状況でも許せたなとも思うくらいだ。本来なら俺以上に困惑しなくちゃおかしいはずで、だけどパパに言われたとか、それはそれで理解早すぎだろって。
……上杉透? そう言えば今朝、拓海が妙なことを言っていたよな。
『風呂場に入る時だけは絶対に慎重に入るんだぞ』
風呂場というのはつまり洗面所の入口ってことで、風呂場と洗面所の扉はどちらも共通のものだ。拓海のやつ、一体何を言っているのだろう?……とその時は思ったものだが、先程の緑川の存在が、逆に俺を嫌な予感にさせてくれた。
が、一つの結論に辿り着くことができたのは、残念ながら俺が洗面所の扉を開けた後だったんだ。
まるで答え合わせでもするかのように、湯けむりの中から真っ白い素肌が僕の視界の前に現れた。その白さときたら到底男のものとは思えない。互いにぽかんと顔を合わせたまま、僕はそのまま視線を下にずらす。するとそいつは慌てて自分の胸の部分をピンク色のバスタオルで隠した。だけどタオルに覆われた細い身体の凹凸の中に、男には絶対存在しない胸の山なりが明らかに存在していたんだ。
「…………」
「…………きゃ〜!!!!!!」
俺は慌ててその戸を閉めた。
てゆかここ洗面所だよな。それこそちゃんと内鍵が存在していなかったのだろうか?
* * * * *