つきみかふぇのらいとのべる

ちょっぴり苦めのコーヒーをどうぞ

エーデルシュティメ 第3話『唐突な小さな来訪者と私』(前)

 何も変哲もない生活空間に、二人の姿があった。

 一人は、今を変えるため、必死に勉強を重ねてきた男の子。
 一人は、今を変えるため、必死に自分を追い求めてきた女の子。

 リビングのテーブルに二人はノーパソを広げ、今も新しい自分と向かい合おうとしている。
 いかにも難しそうな論文、自分の趣向とは明らかに真反対のファッションサイト。
 一体どこでそれを見つけてくるのだろう。探究心からして満ち溢れている。

 誰にだって真似できそうで、誰でも真似できるものではないこと。
 きっと、手に持っている勇気の重さが違うのだと思う。
 一歩を踏み出す力が不足すれば、どうやってもその場でもがき続けるだけになってしまうから。

 だから弱い人間というやつは、ここで足を止めてしまうんだ。
 それを彼らは無自覚に、ひょいと跳びはねる力を持ってるのだろう。
 目の前の崖を飛び越えるため、新しい自分に出逢うために。

「二人ともテーブルで向かい合って、仲良さそうだね?」
「なっ……」
「っ……」

 そんな二人を、私はからかうように邪魔してしまう。
 一つは、悪戯心に火がついて、ただからかいたくなってみたから。
 一つは、羞恥心を忘れ、ただただ羨ましいと思ったから。

 だけどさ、二人はまともに反論することもなく、似たような反応を返してくるだけなんだよね。
 まったく、私の本当の気持ちなんて知らないくせにさ。


 高校に入学して、可愛い女子高生の不可解な男子寮生活初日は、怒涛の連続と言ってよかった。

 引っ越してきたばかりのキッチンを片付けていると、同じ年の男の子が同じ部屋にやってくる。ただしそれはここが男子寮なのだから、ある意味当然のことだ。むしろ当然じゃないのは、そんな部屋に私ともう一人女子が暮らすことになったこと。普通じゃありえない話だ。どうやらこれはパパの陰謀らしく、今更声を荒らげて抵抗しても無駄だってことらしいのだけどさ。

 問題があるとすれば、風呂場の内鍵が何故か自ずと開いてしまったこと。
 上杉さんは帰宅すると、シャワーを浴びにお風呂場へ向かった。ここは男子寮なのだから危険だよって、私は上杉さんにひと声かけ、同時に外側から内鍵がかかっていたことも確認していたはずだったんだ。ところがどういうわけか大樹くんは何も躊躇いもなく、その扉を開けてしまう。内鍵は何故かかかっていなくて、どこまで何を着ていたのか記憶が定かでない上杉さんは、何一つ心の準備ができていなかった大樹くんと、ばったり鉢合わせしてしまった。
 その時の上杉さんの反応ときたら悶絶する程度には何とも可愛らしかったけど、もしそれが上杉さんでなく私であったなら、私はその場で大騒ぎをして、きっとそれなりの大事件に発展していたに違いない。学園長であるパパがどこからともなく登場してきて……いや、あのパパのことだ。無愛想な顔をしたまま、『幸せにやれよ』と一言だけ告げて終わりかもしれない。
 頭痛い。いろんな意味で。

 幸いなことに、私がシャワーを浴びてる最中、風呂場の内鍵はずっとかかっていたままだったようだ。上杉さん、そして大樹くんとも鉢合わせすることはなかった。湯上がりの私は、二人がリビングで仲良さそうにネットサーフィンをしているのを確認すると、そのまま自分の個室へ戻り、ベッドへばたんとうつ伏せに倒れ伏してしまう。やっとこ身体を百八十度回転させ、今度は仰向けになって部屋の天井とにらめっこを始めた。男子寮とは言え、過去にここで暮らしていたのは男子高校生ばかりだったはず。パパの部屋のように煙草のヤニで汚れてることなどもなく、至って美しいクリーム色の壁紙そのままだった。

 私、強がってる……? 多分、そんなことはないはずだ。
 去年大人に混ざって声優オーディションを受けたときと、状況はあまり変わらないはず。あの時もプロの演技というものを思い知って、私は必死に手を伸ばそうとしただけだった。今、それと何が変わらないというのだろう?

 溜息をついたのも束の間、急転直下に地獄の縁へ叩きつけられたのは、次の瞬間だった。

「誰!?」

 物音がする。静かな部屋に壁を叩くような低い音が鈍く響いた。私の背中に貼り付いたベッドの下辺りからだ。それに気づくと、私の背筋はぴんと緊張が走る。
 他の二人はリビングのテーブルにノーパソを広げているはず。つまりここには私しかいないはずなのに、どうして音がするというのだろう。それとも人間でない先住民がここに住んでいるというのだろうか。

 ゴキブリ? いや、それにしては音が大きすぎる。しかもここは八階だ。ひょこひょこ昇ってくるにしたって、やや場所としては高すぎやしないだろうか。
 もしくはネズミだろうか? 先程の音の大きさ的にはそう考えたほうが辻褄が合った。それなら通気孔などを伝って、どこからでも湧いて出てこられる。もちろんそれはそれで決して嬉しいものではないけれど。

 私は勇気を振り絞って、ベッドから立ち上がる決心をした。……まだ立ち上がったわけではない。
 でももしネズミであるなら、もちろん嫌ではあるけど想定内でもある。明日薬局へ行って、ネズミ駆除剤でも買ってくれば解決するはず。ただしこの部屋は、全体で3LDKもあるんだ。一体いくつ買ってくれば解決できるのだろうか。例え私の部屋から追い出しても、大樹くんと上杉さんの部屋へ逃げ込んだだけなら本当に意味がない。大樹くんはともかく、上杉さんとネズミの鉢合わせ……上杉さんの悲鳴が脳内に響いてくる。想像するだけで上杉さんのいじらしさが滲み出てきて、ちょっと悪戯してみたくなるくらいだ。

 いやいや、今はそれどころじゃない。とにかく音の主を確認しなくては。ネズミじゃなかったらネズミ駆除剤では意味がない。とにかく音の主だけでも確認しておかなくては。ちょっと怖くて嫌だけど。
 私は身体の体重をベッドに預けたまま首を伸ばし、頭を逆さにした状態でベッドの下を覗いてみる。長く伸ばした髪が床に垂れたせいで、冷たい触感が頭から胸の心臓目掛けて突進してきた。ひゃっと私は瞬間的におのろいてしまう。気を取り直してもう一度、薄暗くなったその場所をゆっくり覗いてみる。

 部屋の蛍光灯の白い明かりが届くのは、ベッドの下の三分の一程度まで。それから向こう側は完全に真っ黒な暗闇に包まれていた。視界で判別できる限りにおいては何もいない。安堵したのはほんの束の間で、あのはっきりとした不気味な物音を思い出すと、暗闇の場所に何かが潜んでいるに違いない、そう確信する。当然嬉しくもなければ安心もできっこない。

「ねぇ。そこに何かいるの?」

 もしここに何かいるとしたら、間違えなく人間ではない何かだ。どんなに小さな子供であっても、こんな狭い場所へ隠れるのは無理だろうと。だからこんな人間が使う日本語で尋ねたところで、返事なんかあるはずない。

 静寂に包まれたのはほんのわずかに三秒程度。その後やはりというべきか、もう一度物音が私の声の返事として返ってくる。私はなんとも言えない溜息が漏れると、その溜息を心配するかのように中からひょっこりそいつが顔を出してきたんだ。

 色はやや地味とも言える緑色。明らかにゴキブリとかネズミとかの類のそれじゃない。だけど大きさはそれほど大きいわけでもなく、両手で掴むことができれば丁度よい程度の大きさだ。

 ぬいぐるみ……? それはやや不可解だった。
 そう思ったのは、緑色の掌くらいの大きさのぬいぐるみが、こちらへ向かって歩いてきたこと。ようやくそいつが顔を出したときには、真ん丸の愛くるしい瞳がほんの少しだけ私を安堵感で包み込んでくる。

「なんだ。もう見つかっちゃったんだ」

 そしてそいつは、こんなこと言うんだ。
 まるで深い海と広い空の境界線のような、永遠を彷彿させる美しい声。声優の端くれであるはずの私だって、ここまで澄み切った声は聞いたことがない。か細いながらも温かくて、守ってあげたいとかそんな愛嬌さえも多分に含まれていた。

 もっとも、ぬいぐるみが喋るなんて想像してなかったし、少し説明してもらう必要はあるけどね。

後編へ

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