目に見えるものと、目には見えないもの。
この世にはその二つが存在し、世界を無自覚に動かし続けている。
目に見えていれば、何も恐れることはない。
注意深く観察してさえいれば、その薄暗い変化にも気づくことができるから。
問題は、目に見えない方。
どれほど警戒していたとしても、いとも簡単にその対象を見落としてしまう。
当然の話だ。目には見えないのだから。
あるいは、敢えて見せようとしていないのだから。
ただし、もしそれが自分の好意を抱く対象であれば、これほど恐ろしいものはない。
大切な仲間のシグナルを見落とすなんて、いかんともし難いもの。
時にこの世界の誰一人にも気づかれないまま、世界は回り続けてしまう。
いつも俺をおちょくってくるばかりのあいつが、俺の本当の仲間かどうかはわからない。
ただ同じ部屋を共にするルームメイトには変わりなく、困ってることがあれば力になってやりたい。
普段何を考えてるのかさっぱりわからないからこそ、どこか放っておけないのも事実だった。
あいつは嘘をつくことが自分の仕事でもあるから、どうにもやりきれないんだよな。
モノレールはトンネルを通り過ぎて、間もなく終着駅へとたどり着く。
学生寮の最寄り駅からは約十分ほど。ここが江ノ島という名前の駅だとしても、実際はまだ島に辿り着いたわけでもない。あくまで島の最寄りというだけで『江ノ島』と名乗るのは、嘘つきと言われても仕方ない気がする。
本当にこの世の中ってやつは、つくづく嘘まみれの世界だ。
「キャッチ! そんな溜息ばかりついてると幸せが全部なくなっちゃうよ。ほらこれもちゃんと飲み込んで!」
緑川は俺のついた溜息を見逃さず、目には見えないそれを手で掴むと無理くり俺の口に戻そうとしてくる。俺は自分の右手で緑川の両手を追い払おうと試みるも、緑川はそんなのお構いなしと強引にえいっと俺の口を封じる仕草を見せた。くすくすと笑う緑川の様子は、いつも俺をからかってくる顔のそれ。
そもそもこいつって、本気で落ち込んだり悩んだりすることなんてあるのだろうか?
上杉と緑川の父親の陰謀とやらで始まった奇妙な同居生活は、もうすぐ一ヶ月を迎えようとしていた。三人とも同じ高校へ通い、学年も同じでもクラスは全員バラバラ。それでも一日の全ての授業が終わると、男子寮内にある同じ部屋へと帰ってくる。男子である俺は特に問題ないが、女子である緑川と上杉の場合、その辺りを意識することは本当にないのだろうか。だが二人とも常に開き直り、むしろ堂々としている。元々男子寮と言えど、本学は学外活動として自由なテーマの研究活動が活発に行われていて、場合によっては共同研究も行うために女子の出入りも珍しくはない。当然それ故もあるのだろうけどさ。
「せっかく江ノ島に来たんだからもっと楽しまなきゃ」
「そうは言ってもお前の場合、いつも楽しそうじゃないか」
「だって本当に楽しいじゃん。大樹くんは楽しくないの?」
「…………」
今歩いてるこの場所は、江ノ島駅前の商店街。同じ年くらいの男子高生たちが『あの子可愛くない?』などと小声で話しているのが聞こえてくる。それを聞き逃さなかった緑川はちらっとそちらへ向き、いつもどおりの笑顔だけでさらりと返していた。するとぴたっと会話する声が止み、まるで男子高生たちがその場で昇天してしまったかのような空気が、俺の背後からぴしぴしと流れこんできた。
絶対振り返ってなるものか。俺は目立たないよう、すっと俯き加減の姿勢を取る。
にしても緑川の場合、こいつはむしろ目立ちすぎなんだよな。我が校の学園長の一人娘でもあり、その傍ら女子高生声優という顔も持っている。元々はテレビドラマに子役として出演していたらしく、言われてみると確かにテレビの中でこの顔には見覚えがあった。売れっ子というわけでもなかったので、名前までは覚えていなかったというより確認しようと思わなかっただけ。去年くらいからは声優として、アニメの名前のない役を演じているらしい。よほどコアなアニメ好きでなければその名前さえも知られてないらしいが。
「やっぱしカメレオンくんの考え過ぎなのかな〜?」
「何の話だ?」
緑川が笑顔を振りまくのに精一杯になってる隙に、上杉が俺に小声で話しかけてきた。緑川には聞こえていないというより、ただ聞こえていないふりをしてるだけかもしれないが。
「碧海さんが少し悩んでることあるみたいだから気にしてあげてってこの子が言うんだ」
「きゅ〜!」
上杉の肩にぴったりと貼り付いたカメレオンくんが謎の泣き声を上げている。可愛らしい泣き声を演じているつもりなのだろうが、実のところこいつは恐ろしいほど流暢な日本語を美しい声で話してくるとんでもないロボットだ。そんな甘ったれた声に俺は騙されるつもりはない。
「ま、緑川は嘘つくことが天性のお仕事のようだから、そういう話があっても不思議じゃないけどな」
「そうなんだけどね……」
上杉も納得しているのか、半分同意したような素振りを見せた。
実際今だってそうだ。俺から少し距離を取った場所でスマホを弄っているが、本当は俺と上杉の声に気づいている可能性もある。ただ聞こえていないフリをしているだけ。なぜならいつもの緑川なら俺と上杉が話していても、それを気遣うとかはほとんど考えない人間だ。適度な距離を取りつつ、だけど後で『ごめん実は聞こえてた』と言ってくる。ついほんの数日前にもこれと似たような話があったばかりだから、なんとなくそんな気がしている。
「とりあえず今日はせっかく江の島に来たんだし、三人まとめて気分転換できればそれでいいんじゃねぇか?」
「うん。そうかもね」
「ふふっ。やっぱし二人とも仲がいいね! お姉さん少し妬いちゃいそうだなぁ〜」
適度な間を取りつつも、突然その距離を詰めてくる。それが緑川碧海という人物。
話に割って入ってきたかと思えば、空気を読まないフリをして、しっかりとお茶を濁してきた。
「てか誰がお姉さんだよ?」
「だって私が五月生まれで、大樹くんが六月生まれ。透は十二月生まれでしょ?」
「え。僕の誕生日が十二月だって、碧海さんに話したことあったっけ?」
「そんなのうちのデータベースを調べればすぐにわかるもん。知ってて当然よ」
「当然って……お前それ、ハッキングっていうやつでは……」
ハッキングは不正アクセス禁止法でしっかりと禁止されている。たとえそれが実家のデータベースであってももちろん適用内のはずなんだがな。
「もちろん大樹くんだって自分の実の父親が今どこで暮らしているのか、気になる時くらいあるでしょ?」
「な……」
俺の、実の父親……だと!?
「もちろん教えてあげないよ〜。というより調べてもどうにもわからなかったが正解なんだけどね」
「……………」
緑川は舌をぺろっとみせて俺をからかうような態度を取ってきた。俺は突如出てきたやつの人物像に当然心当たりなどなく、ただ呆然とするだけ。もはや何の話かさえもわからない。考えたくもない話だ。
そう。緑川は空気を読まないんじゃなくて、空気を全て読んだ上で、読まないふりをしてくるんだ。だから俺と上杉はいつも緑川のペースに足をすくわれ、いつのまにか緑川の思い通りに振り回されてしまう。どこまでが真実かわからない笑顔の裏側の闇の中へ、気づかぬうちに吸い込まれてしまうんだ。
ところでなんで上杉のやつ、ちくちく俺の顔色を伺ってくるのだろう?
突然に、俺の父親の話が出てきてからか? その腑抜けた顔はどういうわけか俺以上に呆然としていて、少し顔が赤らめているようにも感じられた。
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